【書評・要約】三木那由他『会話を哲学する: コミュニケーションとマニピュレーション』

 

全体要約
同書は「会話とはどういった営みか」という問いのもと、興味深い会話の例が見られるフィクション作品を取り上げ、会話という現象の複雑さと魅力を描き出している。その際、鍵になるのが会話を単なる「情報伝達」ではなく「約束事の形成」として見ることである。つまり会話には、単に話し手が伝えたいことを言葉にして、聞き手がそれを受け取るだけでなく、会話を通じて発話者同士のあいだで、ある認識や決まり事を共有し、それを参照しながら会話が続けられていく側面があるということだ。この側面に注目することによって、発話者らの”あいだ”で起きている緻密な会話実践を見逃さず、読み解くことができるのである。またそこで見えた、他者と共に生きるあり方や、会話に潜む「悪意」や「企み」を明らかにすることで、会話で不利な立場に置かれがちな社会的マイノリティが(と共に)、会話を(で)生き延びる可能性を切り開いている。

 

各章要約
※著者の言葉と自分の言葉がごっちゃになっています。
※引用されている作品のネタバレが含まれています。

 

はじめに
会話とはどういった営みなのだろうか。本書では、興味深い会話の例が見られるフィクション作品を取り上げ、会話という現象の複雑さと魅力を描き出す。

 

第一章 コミュニケーションとマニピュレーション
ここでの会話とは「向かい合って言葉を発し合う」という表面的な動作ではなく、「言葉を通じた影響の与え合い」のことを指す。そうした会話には、さまざまな影響のさせ合い方がありえるが、今回は「コミュニケーション」と「マニピュレーション」という2つのやり方に注目する。はじめの「コミュニケーション」とは、会話を通して、発話者同士のあいだに約束事を形成することであり、発話者らは会話の中で積み重ねられた約束事をもとに、以後会話することになる。もうひとつの「マニピュレーション」とは、そうしたコミュニケーションを通して、聞き手の心理や行動を操作しようすることである。例えば「足元に猫がいるよ」と発話することは、聞き手に足元の猫に注意を向けさせようとすることであり、その後の聞き手の行為を方向づけている。この両者は、コミュニケーションが「話し手と聞き手のあいだ」に焦点があるのに対して、マニピュレーションが「話し手が聞き手に対し、一方的であること」に違いがある。(著者はそこをしっかりと区別している。)

 

第二章 わかり切ったことをそれでも言う
ただコミュニケーションというと、話し手の側に「伝えたい何か」があり、それを言葉で伝達し、聞き手はその言葉を受け取って、その「伝えたい何か」を読み取る、という見方が一般的のように思える。ただ、そうしたバケツリレー式とも言えるコミュニケーション観は、会話の「情報伝達」としての側面を強調しており、話し手が聞き手の知らない、新しい情報を与えることを想定している。しかし我々は、互いにわかり切っていることをあえて発話したりもする。例えば、なんとなくわかっているのだけれど、それが互いのあいだで明示的に確約していないとき、それを約束事として明言させ、その約束事をもとに関係を構築したいときが多々あるだろう。例えば『同級生』で、自分に好意があることを、本人の口から言わせたい行動がそれである。これは言い換えるならば、「すでに互いにわかり切っているようなことであっても、それを改めて約束事のレベルに持ち込んで、それに照らして今後の行動を動機づけていく」やり方である。このとき、バケツリレー式のコミュニケーション観では、相手がすでに知っていることを再度発話する理由を説明できないため、こうした複雑なやりとりを取り逃がしてしまうのだ。

 

第三章 間違っているとわかっていても
もうひとつ、バケツリレー式のコミュニケーション観では捉えられないものとして、間違っているとわかっていることをあえてコミュニケートすることが挙げられる。というのも、バケツリレー式のコミュニケーション観では、伝える情報は発話者自身が正しいと思っているものを想定しているからだ。その例に、筆者は『オリエント急行の殺人』の登場人物である探偵らが、犯人たちに同情し、彼らを救うためにあえて「外部の人間による犯行である」と結論づけたことを取り上げる。探偵らは、その推察が間違っていると分かっているのだけれども、約束事の次元で「その推察が正しいこと」を共有することで、大っぴらに嘘をつくことなく、犯人たちを見逃しことを選んだのだった。これは、発話者の思考と発話内容が対応していると考えるバケツリレー式では捉えられないものである。「約束事の形成」としてコミュニケーションを捉えることで、このような発話者らの”あいだ”で起きている緻密な会話実践が理解可能になるのだ。他にも、自分の本心と違ったことを、自分自身に言い聞かせるような発話も、以上のような会話実践と似ていると言える。

 

第四章 伝わらないからこそ言えること
ただ、コミュニケーションを通じて約束事を形成しようとしても、それが形成できないときもある。そして、むしろ形成できないからこそ発話することもあるのである。つまり、コミュニケーションにならないとわかっているからこそなされる発話があるのだ。その具体例として、著者は『背筋をピンと!』におけるターニャと御木の会話を挙げる。この場面は、ターニャが、御木に自分の理解できない日本語でもいいから、自分が思っていることを吐き出すことを提案し、彼が日本語でこれまでの想いや嫉妬を吐露するところである。このとき、ターニャが理解できない言語であるため、2人の”あいだ”で約束事は形成されないが、むしろそのようにコミュニケーションが失敗する運命だからこそ、自分の中だけで想いを溜め込まず、外へ逃すことができたのだ。また、そこには、「もしも彼女が一緒にこの気持ちを抱えてくれたら」という願望も含まれていることだろう。こうした「伝わらないからこそなされる発話」は、他にも「去り際に、暗号を書き残していくこと」や「死者への語りかけ」も同様に、伝わらないからこそ気を楽にして吐露することができ、かつ発話者が「相手に言葉が届いたかもしれない」可能世界を生きることができるのである。

 

第五章 すれ違うコミュニケーション
次に扱うのは、コミュニケーションを交わしていくなかで、それが失敗する状況である。つまり、これまで形成してきた約束事に反して相手が発話したり、話し手が想定していた約束事と、聞き手が想定していたそれとが食い違ったりする事例である。そのようにコミュニケーションがすれ違った場合、話し手と聞き手のあいだでどういった交渉がなされるのだろうか。著者は『違国日記』での、朝とえみりの会話を例に、話し手と聞き手の齟齬を、互いで調整しあう様子を取り上げる。その場面は、えみりが朝に「女の子と付き合っている」ことを切り出すところから始まる。でも朝は「初カレができたら最初に言おうね」と言っていたのに、えみりが自分より先に自分のおば(槙生)に話していたことを問いただす。ただ朝はそもそも「初カレ」と言っており、またそこから分かるとおり、朝は異性愛を自明視しており、えみりはそんな朝に言えるわけがなかったのだった。問題は、こうしたずれに直面した時に、ふたりがどのように調整し、ずれを解消していくかである。その後朝は、えみりの「あたしに『初カレ』は一生できない 彼氏作んない」という言葉を聞き、自分が想定していた約束事をこれ以上取り上げることなく、えみりに「何を約束事にしていたか」の決定権を譲ったのであった。このように会話相手とすれ違っても、自分の中での正解に縋らずにコミュニケーションの軌道修正を行う朝のような存在もいる。

 

『違国日記』のこの会話は、希望を感じさせるかたちで終わるが、コミュニケーションが失敗した時に、自分の中での正解を譲らず、かつ社会的な立場を利用し、暴力的に自分に都合のいい展開に持っていく人もいる。その状況を著者は「コミュニケーション的暴力」と呼んでいる。基本的にコミュニケーションは、発話者同士のあいだで行われるため、そこに齟齬が生じた場合は発話者同士で解決することになるが、場合によっては周囲の判断を用いることもある。そのとき常にすでにある発話者間の社会的不均衡を悪用し、一方に不利益を被らせる人も多い。すれ違うコミュニケーションは、このように転じる可能性もありえるのだ。

 

第六章 本心を潜らせる
第一章で触れたように、会話にはコミュニケーションの他にも、聞き手の心理や行動に働きかける「マニピュレーション」の側面もある。本章では、自分の本心をコミュニケーション、つまり約束事の形成ではなく、それとは別のマニピュレーションを介して伝える事例を扱う。例えば、『ONE PIECE』のナミとDr. くれはの会話がそれに当たる。この場面は高熱で倒れたナミが、医者であるDr.くれはの治療を受けたあとのことである。ナミは自分の体調が万全であるとし、Dr.くれはに退院させてくれと願うが、Dr.くれはは「医者として、それはできない」と断る。ただその後「いいかい小娘、あたしはこれから下に用があって部屋をあけるよ。(中略) いいね 決して逃げ出すんじゃないよ」と告げ、その場を去る。これは約束事として「逃げ出すな」と言いつけているものの、明らかにナミに逃げ出すように促しているのだ。このようにDr.くれはは、自身の職業倫理とナミへの人情との葛藤を、会話の主音声(コミュニケーション)と副音声(マニピュレーション)を巧みに使いこなすことで解消しているのである。このように、自分の本心を大っぴらに約束事として提示できないときに、別の仕方でそれを潜らせるものとしてマニピュレーションが使えるのだ。

 

第七章 操るための言葉
先ほどは、聞き手のためにマニピュレーションを行った事例を挙げたが、話し手が聞き手を自分の望む方向へと誘導するマニピュレーションもありえる。例えば、シェイクスピアの『オセロー』に登場するイアゴーは、言葉を巧みに用いて聞き手の心情を揺さぶり操る名手と言える。同作品は、ヴェニスの将軍である主人公オセローに悪意を募らせた旗手イアゴーが、彼に彼の妻が浮気していると思い込ませ、殺害にまで至らせる話である。注目すべきは、妻の不義というオセローにとって信じたくないことを、イアゴーがいかに信じ込ませたかである。どうしたかというと、イアゴーは、コミュニケーションの次元で「妻であるデズデモーナが浮気している」と伝えるのではなく、オセローに人間関係のグレーな辺りを疑い続けさせるような質問を繰り返したのだった。これによって、オセローの猜疑心に火をつけ、言ってもないのに「妻が浮気をしている」ことを信じ込ませるまでに至ったのである。このように話し手が聞き手をコントロールし、貶めるような悪質なマニピュレーションも存在し、またそれは言質が取れないために相手を「言った/言ってない」のレベルで責めることができず、タチが悪いものである。